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DQIVレビュー


新シリーズ到来

 ロトシリーズから脱却を図った意欲作DQIV。本作品では冒険を共にする各キャラクター達の設定に重点を置き、当時としては珍しい章立てによる物語構成がなされた。更に、主人公の仇である魔族の王ピサロにも詳細な設定が与えられるなど、DQシリーズ中、最もサブキャラクターを重視した作品となった。加えて、勧善懲悪を前提としないシナリオやAIシステムの搭載、もはやミニゲームとは思えないカジノ施設の登場など、新機軸にふさわしい挑戦的な作品であったが、残念ながら当時はやや不評だったようだ。その要因は、新システムに関する問題と(後述)、前作DQIIIのような展開をプレイヤー達が過剰に期待した点にあると思われる。

 (写真 左)
 本作では魔族側の組織も詳細に描かれた。これはDQシリーズを通しても類をみない。

 (写真 右)
 クリフトの想いを表現する台詞はおそらくこの一文のみであると思われる。公式設定なのか二次メディアで拡大解釈がなされたのか定かではないが、それはリメイク版で決定的なものとなった。


新システムに戸惑ったプレイヤー達

 前作に比べると物語性だけでも十分幅が増えたのに加え、システム面でも色々と新しい試みがなされたことが当時のプレイヤーの多くを戸惑わせることとなった。特に章形式という新たな形態と、AI戦闘と呼ばれる新しい戦闘システムによる影響が大きい。今にして思えば十分評価に値するものであったが、当時の評価はそれほどというものでもなく、プレイヤーの感覚と製作側との間に温度差があったのかもしれない。ではこれらの問題は具体的にどういったものであったのか、簡単に述べてみよう。

 章立てによる影響は主に2つ。一つはレベル1のパーティーを成長させるという行為を何度も繰り返さなければばならない点。一般に、キャラクターの成長の醍醐味は、ある程度成長して装備も充実する頃からが本領を発揮するといえる。しかしながら本作の場合、面白くなる頃には次の章に入ってしまい、やや目の前の楽しみを奪われたかような印象を何度も受けることになってしまうのである。もう一つは主人公の登場までにやや時間がかかり過ぎる点だ。ドラクエシリーズは主人公=プレイヤーという図式を前提とした作品であるため、その点に重点を置いているプレイヤーにとっては、自身が登場する5章が始まるまで退屈だった可能性がある。

 次にAI戦闘について。現在ではドラクエシリーズにおいて深く浸透しているAIだが、本作では「めいれいさせろ」に相当する作戦がなかったため、仲間達がこちらの思うように行動してくれず戸惑うプレイヤーも多かった。特に、強敵との対決ではその影響は大きい。固定モンスターに即死呪文が効かないというお約束はプレイヤーにとっては百も承知だが、AIにとってはそうではない。好奇心旺盛なこともあり、初顔合わせの相手には様々な呪文を試してしまう。 このほか、攻撃呪文の属性がダメージを与える確率によって定義されていたため、それを考慮しないAIはヒット率の低い大ダメージ呪文を連発することもあった。
 (写真)
 本作のAIには学習機能なるものが搭載されていたが、次回作以降ではシステムの複雑化を避けるためか賢さに伴う判断に委ねられるのみになった。また、プレイヤーが6つの作戦すべてを臨機応変に使い分けられていたかというと疑問が残る。
 新システムを受け入れる土壌が十分に出来上がっていなかったことに加えて、サブキャラクターを重視したことによるストーリーの複雑さを考えれば、本作は今までのDQシリーズと比べ対象年齢をやや高めに設定した作品といえよう。では、DQIVの物語とは一体どのようなものであったのか。

魔族と人間:DQIV的二元論

 本作の世界観は、魔族と人間という相対する二者を中心に描かれている。彼らを繋ぐキーワードが進化の秘法とよばれるロストテクノロジーであり、また二者の象徴的存在が、復活が予言される地獄の帝王エスタークと、それを倒すべく誕生する伝説の勇者である。そして、竜神マスタードラゴンや魔族の王ピサロ、更には第三者的役割を果たすエルフらがこの象徴的存在の捉え方を多様化し、これこそが本作の物語の核心でもある。

 これまでのDQシリーズのような勧善懲悪型のストーリーでは、復活した地獄の帝王の討伐が最終目標となったであろうが、本作ではそれが物語の中盤に位置づけられる。またエスターク自体も完全復活するまえに再び封印(本作時点では死亡扱い)されてしまうという、やや肩透かしを食らうかのような展開がなされた。 そして、その後は主人公の個人的な問題がクローズアップされて描かれることとなる。すなわち、魔族と人間の関係は勇者及びピサロとその恋人達という構図が中心となり、主人公が勇者たる生い立ちを明らかにしながら物語は終盤へと向かう。このようなDQシリーズとしては異例な展開も、キャラクター設定重視の作品であることを考えれば相応しい構成といえよう。
 (写真)
 シンシアがそうであったように、ロザリーもまた何らかの思惑によって殺害される。人間だからといって善なる存在として描かれることはなかった。
 こうした描写が子供達にはやや難解でウケが悪かったせいか、次回作DQVでは、主人公の半生そのものを中心に描く物語を採用しているようだ。しかしがながら天空編の最終章DQVIでは、再び二元論的世界観が描かれることになり、これまた不評の一因になった。

演出不足と言われた戦闘シーン

 馬車やAIの導入といった内部処理の開発に重点を置いたためか、戦闘画面における見た目の進化が乏しく、DQIVは派手さが足りない、あるいは前作からほとんど進化していないといった印象を受けたプレイヤーも多い。もちろん、一部のモンスターには特殊な演出が加えられ、最終ボスの進化の秘法の演出は見事と言えるが、全体的には前作のDQIIIとあまり変わらなかったといってもよく、前作から容量が2倍に増加していることを考えれば、不満がでるのも当然かもしれない。更には翌年にはスーパーファミコンのソフトが多数発売されるようになり、演出面の乏しさを錯覚的に感じるようになってしまった。 しかしながら、本作品に感じる時代遅れ感は、発売当時の他のソフトを見渡してみれば、実はそれほどのものではない。次回作DQVの発売までにややブランクがあったことが、こうした錯覚の大きな原因であると思われる。

 (写真)
 戦闘中の演出の進化に乏しかったといわれるDQIVは1990年2月に発売された。この年の4月にファイナルファンタジーIIIが発売され、7月にはDr. MARIO、9月にはロックマン3が発売されている。そして年末には任天堂の新ハードSFCが登場する。


「8逃げ」と「838861」が及ぼしたバランス崩壊

 本作にはカジノコインを大量に入手する裏技と、固定戦闘において会心の一撃を連発する裏技が広く知れ渡っており、ゲームバランスを崩壊させる要因となった。特に祈りの指輪の大量入手による、MPの事実上の無制限使用はかなりの問題といえよう。とはいえ、はぐれメタルの盾を装備できるブライやミネアが使いやすくなったこともあり、勇者+ライアン+アリーナ+クリフトという打撃パーティーの一択から解放されるという利点もある。8逃げ技に関しては、まどろみの剣の強力過ぎる特殊効果との相乗効果により、エスタークを除くボス戦が簡単なワンパターン戦略で攻略できる点が問題であろう。ただ、途中のレベル上げを回避してクリアできるという意味では、現在のゲームバランス感覚からいうと、前作の防御攻撃技と同様に歓迎できる部分もある。

 ちなみに筆者の初プレイ時はこれらの裏技は利用せず、呪文パーティー(勇者+クリフト+マーニャ+ブライ)を中心メンバーにして楽しんだ。希望の祠の存在を知らず、結界の四天王を倒すために何度も魔界への洞窟を通過していたこともあり、ミナデインを覚える前後までレベルが上がっていたので、何とかラスボスを倒すことができたのを覚えている(バロンの角笛未使用)。FCカセットで発売されたDQシリーズの中では唯一最高レベルまで成長させたゲームでもあり、個人的にはDQ3以上に思い出に残った作品だ。おそらくエンディングは100回以上観ているだろう。
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